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【読書感想】ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作 ハイパーインフレ瞬間移動SF『スター・シェイカー』

 

4年ぶりともなるハヤカワSFコンテスト大賞受賞作。

作者の人間六度さんは第28回電撃小説大賞メディアワークス文庫賞の方も受賞*1しており、本書『スター・シェイカー』は新人賞ダブル受賞の大型新人によるデビュー作品というということで感想もかねて書評を書いていこうと思う。

 

目次

■はじめに

■もしも××だったら…を真剣にぶつけると人は〇ぬ

■なぜ大きな物語が必要なのか

■さいごに

 

 

■はじめに

受賞選評でも言われているとおり、とにかく若さ溢れるエネルギッシュな文章と怒濤のごとく押し寄せる奇抜なアイデアの奔流に流されるまま読み終えてしまったという作品だった。

ジャンルは、大雑把に言ってしまえばテレポートをメインとした異能力バトルといったところだろうか。

ストーリー自体も、組織に追われたヒロインを行き掛かり上、助けてしまった主人公があれよあれよと世界の命運をかけた戦いへと巻き込まれていく、というベタではあるが王道のものとなっている。

それでも、後半のオチに繋がる世界や宇宙の在り方へとメスを差し込んでいくような展開は、まごうことなき正統派SFであると感じた。そういう意味ではまさしくハイブリッドな作品である。

上述のとおり、異能力によるバトルシーンがあるので文章の感じはとにかくカッコいい言葉や用語が目白押しだ。それでも、SF的な考証や厳密さをうまい具合に取り込んでいるので、何が起こっているかは直感的に把握できるようになっている。この描写の巧みさはさすが大賞作といったところ。

感じとしては、ものすごく重厚なラノベを読んでいる感覚であり、SNSで感想を漁ってみたところ自分と同じような感想を抱いている人も多いようだった。

ちなみに作者の人間六度さんは好きな小説に『匣底のエルピス』、アニメには『トップ2』などの後期ガイナックス作品をあげていたりなど、これらの作品が好きな人には刺さること間違いなしだろう。

他にも『とあるシリーズ』直撃世代だったりと、確実に自分と同世代であることも本書『スター・シェイカー』が自分のなかの琴線を大きく揺さぶる要因の一つであったと思う。

というように感想を書いてみたら思ったより長くなりそうなので、はてブロの開設がてらここに置こうと思う。

以下、感想と書評。

 

■もしも××だったら…を真剣にぶつけると人は〇ぬ

2029年、人類は最初の”テレポート”と出会った――。

舞台は21世紀後期の日本。人類に潜在能力としての備わっていたテレポート能力が突如として発現し、“気づく”ことさえできれば誰もがテレポートを行えるようになった未来。

人々にテレポートが発現し始めた当初は、テレポートで身体の一部分を置き去りにしてしまったり、別の人のなかに転移してしまう衝突ならぬ“翔突”事故が万単位で発生したりと、情勢的にはかなり不安定ではあったものの、テレポートを補助するWB《ワープボックス》という箱型の装置の発明により、テレポートは安価で安心な移動手段として世界中を覆い尽くようになったーー。

というように、本書はいわゆる空想科学をベースとした世界でのお話である。

はじめこそ、テレポートという一見、派手に見えるが描写的には地味な予感がするものを、どうやってメインに据えるのだろうと首をかしげて読み始めてみたが、その認識はすぐに改まることとなった。

本作の面白さとして、まず挙げられるのが悪意を感じるほどのリアリティ描写だと思う。

――何かが先にここに存在していた!
その何かを引き裂いて出現してしまった。
(中略)
息苦しかった。気圧が高すぎるせいだ。圧力調整弁に手を突っ込み、必死になって挟まったものを引き抜いた。ぶちぶちぶち、と音がして、ウォーターブルーに染められた髪の毛が束になって抜けた。圧力調整弁が動き出し、中に残された頭皮が真空ポンプに吸い出されていく。

上記の文章は冒頭、主人公の赤川勇虎が誤って妊婦のなかにテレポートしてしまったときの描写である。

つまるところ、テレポートがもし現実に起きたらどうなるのか?を真剣に突き詰めていくと上記のような事態が待っているのである。

なるほど、考えてみれば当たり前である。テレポートするということは突然現れることであり、じゃあそこにあらかじめ何かが重なるように存在していたらどうなるの?と問われると、答えはそこにいたものは出現したものに押し出され爆散するか、テレポートしてきたものが潰れるのどちらかである。

本書の設定では、『(テレポートの移動に入る初めの瞬間とその出現は)限りなく同時に行われ、かつ限りなく零に近い時間で行われるため、出現先の空間に存在する物体は、光速に近い速度で膨張する(身体の)輪郭の衝撃によって、どんなものであっても例外なく裂断する』とある。

ということは事態は前者である。たとえそれが人間であったとしても、テレポートはそこにいたものを例外なく引き裂いて出現してしまうわけである。

今までの小説なりゲームなりで出てくるテレポートというと、大雑把にその瞬間的な移動のビジュアルが気持ちのいいものであって、上記のような細かい部分というのはそのイメージの気持ちよさや設定的な便利さに比べて、気にしたら負けな、重箱の隅とでも言うような部分であった。

そういう創作物の野暮とも言える部分に躊躇なくマジレスし、淡々と解体に及ぶ本書のスタイルには脱帽の一言である。

上述のような危険の他にも、テレポートには諸々の制約があるため、テレポートを行うには自動車のような免許制度が存在しているのも面白い。免許の名称や類別には、“普通免許”や“大型免許”などのように自動車免許のものがそのまま流用されており、さらにはタクシーのテレポート版である“歩荷”なる職業も存在している。

“誰もがテレポートできる世界”という突飛な設定ではあるものの、このように技術というものが発展していく過程や、それが普遍となった日常のディティールが列挙されていくことで、小説内の世界というものの解像度がどんどん上がっていくのも読んでて面白いところであった。

多くの人の認識として、物語のいちばん美味しい部分というのは人の人の関わりの度合いが急接近する、いわゆるドラマの部分にあるというのが一般的であると思う。

それとは別に、ある世界がどんどん形作られていくこと、物語の世界が私たちが生きる現実をハックし、肉薄していくような感覚――そういうことに面白さを見出す人種もいる。

そういう意味では、本書から摂取できる面白さはまぎれもなくSFのそれであると言えた。

 

■なぜ大きな物語が必要なのか

(※以下、本書の核心的なネタバレに触れるため注意)

とはいえ、本書『スター・シェイカー』も間違いなく大きなドラマ――物語である。

テレポートがインフラとして普及した社会という、“既存の価値観”とは一線を画した舞台設定はもちろんのこと。

作中後半、あくまで個人的な行為であると思われていたテレポートが、実のところ、この世界の下部構造とも言える量子系に深刻な影響を与える行為であると判明するシーンも、間違いなく個のレベルを大きく超えた“大きな物語”である。

一読者の自分としては、テレポートというSF的ギミックを大胆にも小道具として利用して、物語をより大きな次元へとスケールさせてしまうところに度肝を抜かれてしまったのだが、それ以上に物語が過剰にもインフレーションしていく様には困惑にも似た驚きがあった。

そこから感じたのは、本書『スター・メイカー』という物語を、もっと大きな物語に接続したい、人間関係やキャラクターのやり取りを超えた何かに関連付けたい。そして、そこまでしてはじめて感じることのできるカタルシスに読者を導きたい――そういう欲望だったと思う。

その折、いつだったか作者の人間六度さんのTwitterで妙に記憶に残っている呟きを思い出した。

 

 

大きな物語”という言葉は、その提唱された起源をさかのぼれば、従来の経済学や社会学などが自らの理論の根拠として用いた人間観や思想基盤(文学や神話、歴史なども含まれる)を全般にさす哲学用語であるという。*2

この大きな物語の当時の例としては、マルクス主義などをはじめとした思弁的な知識体系があげられる。そこでは現実の社会において、共産主義ないし社会主義などの“イデオロギー”がその社会の在り方を保証してくれるもの、つまり物語として機能していたとされる。

いうなれば、近代以降に構築された古典的な経済学や社会学というのは、社会があまりに多様なせいで、薬の治験や物理学の実験のような科学的に厳密な検証はできないものの、その知はマルクス主義の理論である唯物史観剰余価値説といった外部の学問知によって肯定され、また実践による実現が可能であることを保証されていたというのである。

しかしながら、ここで言われている大きな物語とはそういう原義的な意味ではないだろう、おそらくこれは、”大きな物語”と対比して語ることのできる“小さな物語”の存在、さらにはその対比関係の話だろう。

世界を変える話から、自分の半径5メートルを変える話へとはどういうことだろうか。慎ましい一人称とは何を指し示しているのだろうか。

それを読み解く鍵こそ、きっと『スター・シェイカー』のなかで語られる様々な登場人物の言葉のなかにあるのではないだろうか。

・主人公達が道中で出会う、遺棄された高速道路上をジプシーのようにさすらう流浪の民『ロードピープル』。

・テレポートの技術が一つの国家や機構に独占され、世界の政治的、軍事的なバランスに深刻な偏りが生じることを恐れる国際組織『国際テレポート協会』。

・さらにはテレポートにより脅かされつつある物理法則を守ろうとする本作の敵組織にあたる『炭なる月』。

・そして、もと敵組織『炭なる月』のメンバーであり、ヒロインのナクサ。

彼らは語る。主人公『赤川勇虎』の持つ価値観や考えに対して、対決するかのように、説得するかのように。

文章の方も同様だ。赤川勇虎という主人公の三人称一人視点で書かれる『スター・シェイカー』は時折、文体が不安定になる。それは主人公の勇虎では感知することのできない、ほかの登場人物たちの情報を物語に挿入しようとするからだ。

そこでは彼らの身の上や、生き方がときに激情をもって描かれ、ときにニュースを読み上げるような淡々とした手つきで補足される。

そして本書の主人公『赤川勇虎』は、その語りをことごとく拒もうとする。彼の物言いは(冒頭の事故に罹災したのも要因ではあるが)後ろ暗く、悲観的である。

彼は、自分には数多くの立場を受け入れることはできないと、ほかの登場人物たちに語る。

しがない高校生である自分に守れるものはヒロインだけだし、ましてや国を超えて暗躍する謎の組織なんてものに追われている手前、もはや自分たちには、(自分たちを殺そうとする)人を"殺さない”という選択に思い煩う余裕すらなくなってきている。

だから、残念ながら、本当に残念なことではあるが、自分たち以外の立場の方々には退場してもらうしかない。なぜなら、究極的には、“自分たち以外の立場"なんてものは、当人である自分には全く関係のない事情であるからだ。

つまるところ、登場人物たちはそれぞれ自分の家族や身の回りの共同体という小さな物語を有していて、それは別個に拮抗状態にある。だから一つの立場のみを万能に助けられるような説得力のある物語を自分は信じることはできないし、信じるつもりもない。

勇虎のこの一連の態度こそ、“大きな物語”が失われたということではないだろうか。

現代に生きる私たちは個人の価値観と価値観が衝突し、折衷し続ける過敏で配慮的な社会で物語を考える必要が出てきてしまった。

そういう配慮的な社会では、ある立場から見れば"正義"だったものが、別のある立場から見ればまさしく"悪"に取って代わるように、一辺倒な見方で敵を気持ちよく断罪し、勧善懲悪を貫くことに違和感を感じざるを得なくなってしまった。

いやな言い方をすれば、書き手はもちろんのこと、それを読む私たち読者自身の目線からも、何かを打倒することで安易に喜ぶことのできる気持ちいい物語が失われてしまったことを意味している。

しかしながら、あくまで小説として書かれている以上、それがエンタメであろうが、SFであろうが、作者は物語のオチやその先の展望を示さなければならない。いつだって書き手というものは大きな物語をどこかで創出することを迫られる。

そこで卑怯にも隙間産業的なかたちで手を貸してくれるのがSFというジャンルではないのだろうか。

この言い方は少々、乱暴かもしれない。それでも、SFは誰のことも顧みない。SFは誰かの身の上も、事情も、考慮してはくれない。

それゆえ逆説的に、SFにはギャップや偏向のない世界を描くことができる力があるのではないだろうか。

そのような、ある種の結節点ジャンクションとなって半径5メートルの私ごとを世界規模のお話へ、慎ましい一人称をエモーショナルな共通体験へと接続するだけの強度を与えてくれる――自分はそう思うのである。

そういう意味では、大きな物語とは自分の半径5メートルの世界をひとまず脇に置く大きな逃げでもある。

長々と書いたが、そもそも『スター・シェイカー』という物語は別段そういう話をしているわけではない。本書は純然たるボーイミーツガールの物語であり、上記の話は見当違いも甚だしい野暮である。

それでも、物語の最後、逃げたテレポート先で勇虎が出会ったもの、そして彼が守った二つの物語が両立できる、ある意味ではどっちつかずな世界というものを想像すると、不思議と泣けてくるのである。

 

■さいごに

全体的に文章は軽やかで、かつ直接的な表現が多いので直感的に読める。

SFと聞いて多くの人が想像するような固い文章ではまったくなく、むしろラノベのような言葉の響きや表現の語彙で楽しむような文章で読みやすい。興味ある人は気楽に手に取ってみるのをオススメする。

一応、400ページあまりの長編であるが、上記の理由で読もうと思えば二日程度でさらっと読めてしまうのもまた良い。

あと、自分はあまりイラストレーターさんに詳しくなかったので知らなかったが、単行本のろるあ/Rolua氏の描いている表紙がめちゃくちゃにカッコいいので、表紙買いも全然ありなのではないだろうか。自分はTwitterを即フォローした。*3

なんであれ、四年ぶりの大賞作はあなたを驚くべきハイパーインフレ瞬間移動の世界に連れていくこと請け合いだ。

 

*1:

きみは雪をみることができない | 書籍情報 | メディアワークス文庫

*2:フランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタール(1924-98)が『ポストモダンの条件』(1979)において提唱したのが初出。

*3:

ろるあ / 𝙍𝙤𝙡𝙪𝙖 (@Rolua_N) | Twitter